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第3話 月乃こはねは、笑えない

last update Tanggal publikasi: 2026-08-19 21:52:15

神谷レンの名前を見た瞬間、俺の中で何かが冷えた。

 水道の蛇口を閉めた音だけが、やけに大きく聞こえた。

 厨房の流しには、洗いかけの皿が一枚。泡のついたスポンジ。濡れた手。朝の光。

 ただの喫茶店の朝だ。

 それなのに、タオルに包まれたスマホの小さな画面だけが、俺の過去を乱暴に引きずり戻してくる。

【神谷レン:こはねちゃん、連絡取れないって本当?】

 こはねちゃん。

 あいつが、その名前を呼んでいる。

 俺は奥歯を噛んだ。

 神谷レン。

 元配信仲間。

 爽やかな顔と、よく通る声と、誰にでも好かれる立ち回りを持った男。

 カメラの前では友達思い。裏では、他人の数字を自分の踏み台にするのがうまい。

 俺が炎上した時、あいつは泣きそうな顔で動画を出した。

『僕は彼のことを友人だと思っていました。だからこそ、今回の件は本当に残念です』

 あの声。

 あの目。

 あの、綺麗に整えられた失望。

 当時の俺は、まだどこかで期待していた。

 レンなら事情を知っている。

 あいつなら、全部が切り抜きじゃないと分かってくれる。

 せめて、少しは庇ってくれる。

 馬鹿だった。

 誰よりも早く俺を切り捨てたのは、あいつだった。

 それが正解だったのかもしれない。

 炎上中の人間に近づけば、自分も燃える。

 ネットでは、火元から離れた奴が勝つ。

 でも、俺は今でも覚えている。

 あの動画が出た瞬間、俺の味方だったはずのコメント欄が、完全に敵に変わったことを。

 クロユウ最低。

 レンくん可哀想。

 友達にこんな顔させるなんて。

 こいつはもう終わり。

 レンくんは巻き込まれただけ。

 むしろ被害者。

 神谷レンは、泣きそうな顔で数字を取った。

 そして俺は、謝りながら沈んだ。

「……なんで、お前が」

 口の中で呟いた声は、自分でも驚くほど低かった。

 ソファの方を見る。

 白瀬こはるは眠っていた。

 毛布を肩までかけ、少し丸まるようにしている。

 顔色はまだ悪い。

 目の下の影も消えていない。

 眠っているのに、眉間に薄い皺が寄っていた。

 十九歳。

 大人気VTuber「月乃こはね」の中の人。

 画面の中では、ふわふわした声でリスナーを甘やかし、失敗しても笑って、負けても笑って、眠れない夜に「一緒に起きてようね」と言ってくれた女の子。

 その彼女のスマホに、神谷レンから連絡が来ている。

 偶然か。

 仕事関係か。

 配信者同士のつながりか。

 あるいは、もっと面倒な何かか。

 考えたくないのに、頭が勝手に悪い方へ転がっていく。

 俺はスマホから目を逸らした。

 見ない。

 見たことにしない。

 何度そう決めても、結局見ている。

 最悪だ。

 俺は洗い物を終わらせ、カウンターに置いてあった自分のスマホを手に取った。

 検索窓を開く。

 指が止まる。

 月乃こはね 神谷レン

 そこまで打って、俺は画面を消した。

「……何やってんだ、俺」

 これでは、ただの詮索だ。

 こはるが寝ている間に、彼女の名前で検索する。

 推しの中の人だと知った途端、裏を覗こうとする。

 それは、俺が一番嫌いだった連中と何が違う。

 俺はスマホを伏せた。

 その時、ソファの方で小さな衣擦れの音がした。

 こはるが、目を覚ましていた。

 いつから起きていたのか分からない。

 彼女は毛布の隙間から、こちらを見ていた。

「……黒瀬さん」

「起きたか」

「はい」

「悪い。うるさかったか」

「いいえ」

 こはるは身体を起こそうとした。

 だが、途中で力が抜けたようにソファへ戻る。

「無理するな」

「……少し、寝たので」

「寝たからって全回復するなら、病院はいらない」

「病院は……」

「行けって言ってない。今のは一般論だ」

 こはるは毛布を握ったまま、小さく頷いた。

 そして、視線をテーブルに向ける。

 タオルに包まれたスマホ。

 その中身が、彼女を呼び続けている。

 こはるの顔が、また少し強張った。

「見ます」

「今じゃなくていい」

「見ないと、怖いです」

「見ても怖いだろ」

「……はい」

「どっちにしろ怖いなら、後でいい」

 こはるは黙った。

 たぶん、納得していない。

 納得していないけれど、言い返す体力がない。

 そういう黙り方だった。

 俺はカウンターの向こうから、温め直した白湯を持ってくる。

「飲め」

「……ありがとうございます」

「ココアじゃないぞ。朝から甘いの連打すると、たぶん胃がびっくりする」

「胃が」

「昨日からお前の胃は驚きっぱなしだ。ココア、味噌汁、唐揚げ。次は何が来るんだって身構えてる」

「……胃って、身構えるんですか」

「俺の胃はよく身構える。主に通知音で」

 こはるは、カップを受け取った。

 白湯を少しずつ飲む。

 その飲み方が、まだ頼りない。

 両手で包んで、熱さを確かめながら、少しずつ。

「黒瀬さん」

「ん?」

「さっき、怖い顔をしていました」

 俺は動きを止めた。

「そうか?」

「はい」

「元からじゃないか」

「元から、少し怖いです」

「正直だな」

「でも、さっきは違いました」

 こはるは俺を見る。

 眠りから覚めたばかりのぼんやりした目なのに、妙なところで逃がしてくれない。

「怒ってる顔でした」

「怒ってない」

「嘘です」

「……怒ってたかもしれない」

「私に、ですか」

「違う」

 そこだけは、すぐに言えた。

 こはるの肩から、ほんの少し力が抜ける。

「じゃあ、誰に」

 俺は答えなかった。

 神谷レンの名前を出していいのか。

 彼女がその名前をどう受け止めるのか。

 そもそも、こはるとレンがどういう関係なのか。

 分からないことが多すぎる。

「昔の知り合いの名前を見た」

 結局、俺はそう言った。

 嘘ではない。

 でも、全部でもない。

 こはるの指がカップに添えられたまま止まる。

「……神谷レンさん、ですか」

 俺は、息を止めた。

 こはるは目を伏せる。

「見えたんですね」

「……悪い」

「いいです。たくさん来ていたので」

「知り合いなのか」

 聞いてしまった。

 聞かない方がよかったのかもしれない。

 けれど、もう口から出ていた。

 こはるは、白湯の水面を見つめながら答えた。

「仕事で、何度か」

「コラボ?」

「はい。事務所が違うんですけど、イベントで一緒になって。月乃こはねの外部コラボを増やすって話があって、その時に」

「そうか」

「黒瀬さんは」

 こはるは、言葉を選ぶように唇を動かした。

「神谷さんと、何かあったんですか」

 何か。

 便利な言葉だ。

 俺の人生が壊れる直前と直後に、あいつは確かにそこにいた。

 けれど、あいつが全部やったと証明できるわけじゃない。

 燃やしたのはネット全体だ。

 切り抜いた奴も別にいる。

 スポンサーに通報した奴も、誹謗中傷した奴も、匿名の誰かだ。

 神谷レンは、ただ一番うまく立ち回っただけ。

 そう言えば、それまでだ。

「昔、配信仲間だった」

 俺は言った。

「友達、だったんですか」

「友達だと思ってた」

 過去形にした時、自分の声が少しだけ乾いた。

 こはるは、それ以上聞かなかった。

 聞きたそうではあった。

 けれど、踏み込んではこなかった。

 昨日、俺が彼女にしたように。

 こはるは白湯を飲み、しばらくしてから言った。

「神谷さんは、優しいです」

 俺は思わず笑いそうになった。

 笑える話ではないのに。

「そう見えるだろうな」

「見える、というか……みんなに優しいです。スタッフさんにも、ファンにも、私にも」

「そうか」

「でも」

 こはるの声が小さくなる。

「怖いです」

 俺は、こはるを見る。

 彼女はカップを両手で持ったまま、視線を落としていた。

「優しいのに?」

「はい」

「何かされたのか」

「された、というほどじゃないです」

 こはるは、そう言った。

 この言い方をする人間は、だいたい何かを我慢している。

「イベントの時、神谷さんが言いました。こはねちゃんは、もっと外に出た方がいいって。顔出しじゃなくても、中の人の気配を少し出した方が、ファンは喜ぶって」

 俺は眉を寄せた。

「中の人の気配?」

「たとえば、手だけ映すとか、生活音を入れるとか、部屋の一部を出すとか。そういうの、今は需要があるからって」

「……」

「マネージャーさんも、それはいいかもしれないって。神谷さんは伸ばし方が分かってるから、参考にしなさいって」

 こはるは、困ったように小さく笑った。

 笑顔の形をした、笑顔ではないものだった。

「でも、私は嫌で」

「当たり前だろ」

 思わず強く言ってしまった。

 こはるがびくっとする。

 俺はすぐに手を上げた。

「悪い。お前に怒ったんじゃない」

「……はい」

「嫌で当然だ。顔を出さない、正体を出さない、その線引きがあるから活動できてる奴だっている。そこを数字のために薄めろって言うのは、乱暴すぎる」

 こはるは俺を見た。

 その目が、少しだけ驚いている。

「私が、わがままなのかと思ってました」

「違う」

「でも、みんな言うんです。今はそういう時代だからって。ファンは裏側を知りたがってるからって。信頼してるなら見せられるはずだって」

「信頼と露出は別だろ」

「露出」

「言い方が悪かった。情報の露出な」

「……分かってます」

「分かってる顔じゃなかったぞ」

「少しだけ、変な言い方だと思いました」

「思ったなら言え。俺はたまに言葉選びを事故る」

 こはるは、ほんの少しだけ表情を緩めた。

 だが、すぐにまた暗くなる。

「神谷さんは、悪い人じゃないと思います」

「……」

「たぶん、本当に伸ばすために言ってくれたんだと思います。私のためというより、月乃こはねのために」

「それが怖いんだろ」

 こはるは黙った。

 俺は言った。

「悪意がないから、拒否しにくい。正論っぽいから、断りづらい。お前のためだって言われると、嫌だって言った自分が悪者みたいになる」

 こはるの手が、白湯のカップを握る。

「……はい」

「そういう優しさは、雑に刺さる」

「雑に」

「刃物を綺麗な包装紙で包んでるみたいなもんだ。渡す側はプレゼントのつもりでも、受け取った方は怪我する」

 こはるは、カップを見つめたまま、小さく言った。

「黒瀬さんは、言葉が怖いです」

「悪い」

「でも、少し分かります」

「そうか」

「はい」

 それきり、二人とも黙った。

 神谷レン。

 あいつは、また同じ場所にいる。

 誰かの境界線の近くで、数字になる匂いを嗅ぎ分けている。

 偶然かもしれない。

 俺が被害妄想を膨らませているだけかもしれない。

 それでも、こはるの怯え方を見ると、胸の奥がざらついた。

 俺は話題を変えることにした。

「とりあえず、今日の予定を決める」

「予定」

「そう。店内安静計画」

「まだ、安静なんですか」

「まだって、お前、昨日倒れてたんだぞ。昨日倒れて今日から元気ですって、それはスマホゲームのスタミナ回復じゃない」

「……スタミナ」

「時間で全回復しない。課金しても無理」

「課金」

「何の話してるんだ俺は」

 こはるは、少しだけ口元を押さえた。

 笑いかけた。

 たぶん。

 俺はそれを見て、少し調子に乗った。

「今日の任務は三つ。飯を食う。寝る。スマホを見すぎない」

「それ、任務なんですか」

「かなり高難度だぞ。特に三つ目」

「……はい」

「それから、もし気が向いたら、店の中でぼーっとする」

「ぼーっと」

「人間には必要だ。特に、ずっと誰かに見られてる奴には」

 こはるは視線を落とした。

 また少し、核心に触れてしまったかもしれない。

「見られてる、というより」

「うん」

「見られるために、作ってる感じです」

「作ってる?」

「声も、言葉も、笑い方も。月乃こはねは、みんなが安心できるように作ってます。元気すぎても疲れるから、少しだけ抜けてて。暗すぎると心配されるから、ちゃんと笑って。コメントを拾う時は、なるべく誰も傷つかないようにして。失敗したら、笑ってもらえるようにして」

 こはるは、淡々と言う。

 それは、人気者の技術だった。

 同時に、自分を削る作業でもあった。

「プロだな」

 俺が言うと、こはるは首を横に振った。

「違います」

「違うのか」

「怖いだけです」

 こはるは、カップの中の白湯を見つめた。

「嫌われるのが怖いんです。つまらないって言われるのも、冷たいって言われるのも、前と違うって言われるのも。だから、先に作るんです。みんなが好きそうな私を」

「それで人気になった」

「はい」

「でも、苦しくなった」

「……はい」

 短い返事。

 それが妙に重かった。

 俺は、配信者時代の自分を思い出す。

 クロユウも、作った自分だった。

 最初はそうじゃなかった。

 好きなゲームをやって、好きなように喋っていただけだった。

 けれど、登録者が増えると変わった。

 このテンションを期待されている。

 ここでは怒った方が盛り上がる。

 ここでは笑いに変えた方がいい。

 このゲームは好きじゃないけど数字が取れる。

 このコラボ相手とは合わないけど伸びる。

 少しずつ、自分で自分を編集していった。

 気づいた時には、本当の自分がどこにいるのか分からなくなっていた。

「分かるよ」

 俺は言った。

 こはるが顔を上げる。

「全部じゃない。お前の立場は俺には分からない。でも、作った自分が本物より強くなる感じは、少し分かる」

「……黒瀬さんも?」

「クロユウは、俺よりずっと喋れた。俺よりずっと明るかった。俺よりずっと強かった。だから、みんなクロユウを見に来た」

「黒瀬さんは?」

「俺は、その裏でカップ麺食ってた」

「……カップ麺」

「しかも伸びたやつ」

「悲しいです」

「だろ。配信者の現実なんて、だいたい伸びたカップ麺と未読メールだ」

 こはるは、少しだけ笑った。

 今度は分かった。

 ちゃんと笑った。

 とても小さいけれど。

「月乃こはねも、そうです」

「伸びたカップ麺?」

「はい。あと、冷めたおにぎりと、飲みかけの水」

「夢がないな」

「でも、配信では、今日も楽しかったって言います」

「楽しくない日も?」

「楽しくない日も」

「しんどいな」

「はい」

 こはるは、笑ったまま目を伏せた。

 その笑顔が少しずつ崩れていく。

「でも、楽しくないって言ったら、心配されます。心配されると、マネージャーさんに怒られます。雰囲気が悪くなるから。案件先にも失礼だから。ファンを不安にさせるなって」

「人間を何だと思ってるんだ」

「商品、だと思います」

 こはるは即答した。

 俺は何も言えなくなった。

「月乃こはねは、商品です。声も、笑い方も、イラストも、グッズも、案件も。たくさんの人が関わってます。だから、私が勝手に壊れたら、たくさんの人に迷惑がかかります」

「白瀬こはるは?」

「……分かりません」

「またそれか」

「本当に、分からないんです」

 こはるの目が、少し潤む。

「白瀬こはるは、何をしていいのか分からないです。昨日も、ここで寝ていいって言われても分からなかった。ココアを飲んでいいのかも、唐揚げを食べていいのかも、分からなかった。スマホを切っていいのかも、休んでいいのかも、分からない」

 彼女の声が、少しずつ震えていく。

「月乃こはねなら分かります。コメントを読んで、笑って、ゲームして、歌って、ありがとうって言って、また来てねって言って。分かるんです。何をしたら喜ばれるか、何をしたら怒られるか。なのに、白瀬こはるは、何も」

「こはる」

 俺は、自然に名前を呼んでいた。

 彼女が言葉を止める。

「今、お前は白湯を飲んだ」

「……はい」

「朝飯も少し食べた」

「はい」

「唐揚げも食べた」

「……はい」

「寝た」

「はい」

「今、俺と話してる」

「はい」

「それでいいんじゃないか」

 こはるは目を見開いた。

「それだけで?」

「それだけで。人間って、だいたいそれだけできれば上等だろ」

「でも、それは何にもなりません」

「何かにならないと駄目なのか」

「……」

「数字にならないと駄目か。切り抜きにならないと駄目か。商品にならないと駄目か」

 言葉が少し強くなった。

 でも今度は止めなかった。

「お前、十九だろ。十九の人間が、飯食って寝て息してるだけで、何にもならないなんて言うなよ。重すぎるんだよ、それは」

 こはるの目から、涙が一粒落ちた。

 彼女はそれに気づいていないようだった。

「……黒瀬さん」

「ん?」

「私、今日」

 こはるは、唇を震わせた。

「笑えないです」

 その言葉は、音としては小さかった。

 でも、店内の空気を全部止めるくらい重かった。

 月乃こはねは、笑う。

 いつも笑う。

 失敗しても、怖くても、疲れていても、コメント欄の前では笑う。

 それが彼女の仕事で、役割で、居場所だった。

 その彼女が、今、笑えないと言っている。

 俺は、ゆっくり頷いた。

「じゃあ、笑わなくていい」

 こはるは、俺を見た。

 信じられないものを見る目だった。

「いいんですか」

「いい」

「でも」

「でもじゃない」

「暗くなります」

「いい」

「つまらないです」

「いい」

「気を遣わせます」

「もう遣ってる」

「……迷惑です」

「それももう聞いた」

 こはるの涙が、また落ちた。

「黒瀬さん」

「何だ」

「私、可愛くないです」

「今それ関係あるか?」

「あります」

「あるのか」

「月乃こはねは、可愛くないといけないです」

「白瀬こはるは?」

「……」

「白瀬こはるは、別に可愛くなくてもいいだろ」

 言ってから、俺は少し焦った。

 これは言い方が悪い。

「いや、違う。今のは、お前が可愛くないって意味じゃなくてだな。可愛いか可愛くないかを仕事みたいに背負わなくていいというか、評価項目から外していいというか」

 こはるは涙を浮かべたまま、ぽかんとした。

「……黒瀬さん」

「はい」

「慌ててますか」

「慌ててる」

「どうして」

「十九の女の子に『可愛くなくてもいい』って言った男になりたくないからだよ」

 こはるは一瞬だけ目を丸くして、それから、泣きながら笑った。

 声は出なかった。

 でも、肩が少し震えた。

 笑った。

 泣いているのに、笑った。

「笑えてるじゃないか」

 俺が言うと、こはるは慌てて口元を押さえた。

「……今のは、違います」

「何が」

「笑おうと思って、笑ったんじゃないです」

「じゃあ、それでいいんだよ」

 こはるは動きを止めた。

「笑おうと思って笑ったんじゃないなら、それはお前の笑いだろ。月乃こはねのじゃなくて」

 こはるの表情が、ぐしゃっと崩れた。

 次の瞬間、彼女は俯き、両手で顔を覆った。

 声はほとんど出さなかった。

 ただ、涙だけが落ちた。

 小さな嗚咽が、喫茶店の奥で震える。

 俺はどうすればいいか分からなかった。

 こういう時、ドラマの主人公なら、そっと肩を抱くのかもしれない。

 少女漫画なら、ハンカチを出すのかもしれない。

 ライトノベルなら、頭を撫でるのかもしれない。

 でも現実で、それをやるのは距離感が難しい。

 昨日拾ったばかりの十九歳の女の子だ。

 俺は二十八歳の男だ。

 しかも、彼女の正体を知っている元古参リスナー疑惑のある男だ。

 迂闊に触れたら、優しさではなくなる。

 俺はカウンターからティッシュ箱を持ってきて、こはるの手の届く場所に置いた。

「使え」

 こはるは顔を覆ったまま、手探りでティッシュを取った。

「……すみません」

「謝罪禁止」

「……ごめんなさい」

「言い換え禁止」

「……はい」

 鼻をすする音。

 ティッシュを取る音。

 泣いている人間のいる空間は、どうしてこんなに生々しいのだろう。

 画面の中の涙とは違う。

 編集もBGMもコメントもない。

 ただ、人が泣いている。

 その事実だけが、重い。

 しばらくして、こはるが小さく言った。

「黒瀬さん」

「ん」

「引きませんか」

「鼻水で?」

「……はい」

「人間だから出るだろ」

「月乃こはねは、出ません」

「設定上はな」

「設定」

「VTuberの体はたぶん鼻水出ないだろ。知らんけど」

「……出たら嫌ですか」

「嫌というか、ファンアートの方向性が変わる」

 こはるは、また少しだけ笑った。

 泣き笑いだった。

「黒瀬さん、変です」

「今日三回目くらいだぞ、それ」

「でも、少し楽です」

「ならよかった」

「こんなに泣いたの、久しぶりです」

「泣く暇もなかったか」

「泣いたら、目が腫れるので」

「そこか」

「配信で、顔は出ないですけど、声が変わります」

「泣いた後の声はバレるか」

「はい。コメントで、こはねちゃん泣いた? って言われます。優しいコメントなんですけど、言われると、もっと泣きそうになります」

「分かる」

「黒瀬さんも?」

「謝罪配信の前に泣いた。声が変で、コメントに『演技くさい』って書かれた」

 こはるの顔が曇る。

「……ひどいです」

「ひどいな。でもまあ、コメント欄なんてそういうもんだ。優しさもあるけど、ナイフも混ざってる。しかも、どれが刺さるか書いた本人にも分かってない」

「私は」

 こはるは、ティッシュを握りしめた。

「私は、コメント欄が好きでした」

「うん」

「みんな、優しくて。面白くて。眠れない人とか、学校が嫌な人とか、仕事で疲れた人とか、いろんな人が来てくれて。私の声で少し楽になったって言ってくれて」

「うん」

「でも、最近は、怖いです」

 こはるの声が小さくなった。

「優しいコメントも、怖いです。待ってるねって言われると、戻らなきゃって思います。無理しないでねって言われると、無理してないように見せなきゃって思います。大好きって言われると、その好きがなくなったらどうしようって思います」

 俺は黙って聞いた。

「アンチコメントだけが怖いんじゃないんです。優しい言葉も、期待になると怖いんです。こんなこと、ファンの人に言えないです。優しい人たちなのに。私が勝手に、怖がってるだけだから」

「勝手じゃない」

「でも」

「人に好かれるのも、疲れるんだよ」

 こはるは顔を上げた。

 俺は言った。

「嫌われるよりはいい。そりゃそうだ。でも、好かれ続けるのもきつい。相手の中にいる自分を壊せなくなる。期待通りの自分でいないと、裏切った気になる」

 俺自身に言っているみたいだった。

「俺も、リスナーが好きだった。コメント欄に救われた日もある。でも同時に、怖かった。今日も面白くなきゃいけない。今日も昨日より数字が良くなきゃいけない。好きって言ってくれた人をがっかりさせちゃいけない。そう思ってるうちに、好きだったはずのものが重くなった」

「……黒瀬さんも、コメント欄が怖かったんですか」

「最後の方はな」

「それでも、配信してたんですか」

「してた。馬鹿だから」

「馬鹿じゃないです」

「馬鹿だよ。休めばよかった」

「休めなかったんですよね」

 俺は、言葉に詰まった。

 こはるは静かに続ける。

「黒瀬さんが、私に言ってくれたみたいに」

 その言葉は、責めるものではなかった。

 ただ、同じ場所にいると伝える声だった。

 俺は苦笑した。

「そうだな。休めなかった」

「じゃあ、馬鹿じゃないです」

「じゃあ何だ」

「不器用、です」

「急に柔らかくしたな」

「芽衣さんみたいに、うまく言えないので」

「芽衣はあれで言えてる側なのか?」

「はい。春の風なので」

「本人に言うなよ。絶対うるさいぞ」

 こはるは少し笑った。

 泣いた後の目が赤い。

 鼻も少し赤い。

 月乃こはねの完璧な声の主とは、とても思えない。

 でも、今の方がずっと人間らしかった。

 俺は立ち上がった。

「ちょっと待ってろ」

「どこに」

「厨房。逃げない。約束しただろ」

 こはるは、子供のように小さく頷いた。

 厨房に戻り、冷蔵庫を開ける。

 何か甘いもの。

 泣いた後に出すものとして、ココアは昨日やった。

 プリンはない。

 アイスもない。

 冷蔵庫には卵、牛乳、豆腐、昨日の味噌汁、芽衣が置いていった唐揚げ弁当。

 喫茶店とは。

「……フレンチトーストなら作れるか」

 食パン、卵、牛乳、砂糖。

 ある。

 俺は卵液を作り、食パンを浸した。

 フライパンにバターを落とすと、じゅわっと音がして、甘い匂いが広がった。

 ソファのこはるが、少し顔を上げる。

「……何ですか」

「泣いた人間に出すやつ」

「そんなメニューが」

「今できた」

「喫茶こもれびは、適当ですね」

「経営方針だ」

 焼き上がったフレンチトーストを皿に乗せる。

 粉砂糖なんてしゃれたものはない。

 代わりに、はちみつを少しかけた。

 こはるの前に置くと、彼女は驚いたように皿を見た。

「これ、食べていいんですか」

「いい」

「さっきも朝ご飯を」

「泣くと腹が減る」

「そうなんですか」

「知らん。今決めた」

 こはるはフォークを持った。

 小さく切って、口に入れる。

 数秒後、目が少しだけ丸くなった。

「甘いか」

「……はい」

「昨日から甘いものばっかりだな」

「でも」

「でも?」

「昨日のココアより、少し分かります」

 俺はカウンターに寄りかかった。

「味が?」

「はい」

「なら、よかった」

 こはるは、ゆっくり食べた。

 半分くらい食べたところで、フォークが止まる。

「残していい」

 俺が先に言うと、こはるは少し驚いた顔をした。

「また言われると思ったから、先に言った」

「……ありがとうございます」

「どういたしまして」

 こはるはフォークを置いた。

 そして、皿に残ったフレンチトーストをじっと見る。

「黒瀬さん」

「ん?」

「私、配信でよく言うんです」

「何を」

「食べられない時は、ひとくちだけでも偉いです、って」

「いい言葉だな」

「でも、自分ではできませんでした」

「できたじゃないか」

 こはるは、皿を見つめたまま、涙の残る目で笑った。

「はい。半分、食べました」

「十二分だ」

「十二分」

「十分より二多い。お得だ」

「意味が分かりません」

「俺も分からない」

 こはるが、また少し笑った。

 今度は、無理やりではなかった。

 その時、店の扉が乱暴に開いた。

 からん、というベルの音が、いつもより荒く響く。

「黒瀬!」

 低い怒鳴り声。

 大槻源三さんだった。

 作業着にベスト、眉間の皺。

 朝から不機嫌の総合商社みたいな顔をしている。

「何だ、源さん。今日はまだ開店前ですよ」

「開店前も何も、昨日の夜、裏口に変な車が停まっとったって聞いたぞ」

「変な車?」

「黒いワゴンだ。駅の方から来たらしい。商店街をゆっくり回ってたそうだ」

 俺の背中が少し冷えた。

 こはるも、明らかに反応した。

 源三さんはそこで初めて、ソファのこはるに気づく。

 目つきが変わった。

「その娘か」

「源さん」

「昨日、倒れとったんだろ」

「芽衣から聞いたんですか」

「あいつは口が軽い」

「知ってます」

「おい、娘」

 源三さんがこはるに向き直る。

 こはるはびくっとした。

「名前は」

「……白瀬、です」

「歳は」

「十九、です」

「親には連絡したのか」

 直球だった。

 こはるの顔が強張る。

 俺は間に入る。

「源さん、今それは」

「必要なことだ」

「必要でも、順番があります」

「順番を間違えて取り返しがつかなくなることもある」

 源三さんの声は厳しかった。

 でも、悪意ではない。

 この人はこの人で、商店街に転がり込んできた若い女の子を心配している。

 ただ、心配の出力が昭和の石臼みたいに重い。

「源さん」

 俺は少し声を落とした。

「事情があるみたいです。今は体調が悪い。昨日、雨の中で倒れてた。まず休ませたい」

「事情があれば何でも通ると思うなよ」

「思ってません」

「思っとる顔だ」

「俺の顔への信頼、低すぎません?」

「お前は昔からそうだ。面倒なもんを拾う」

 源三さんは、こはるを見た。

 こはるは毛布を握り、泣いた後の赤い目で俯いている。

 源三さんの眉間の皺が、さらに深くなった。

「……目が死にかけとる」

 こはるの肩が跳ねる。

「源さん」

「事実だ」

「もう少し言い方」

「言い方を柔らかくしたら、事実が柔らかくなるのか」

 俺は黙った。

 源三さんは、こはるに近づきすぎない距離で立ち止まった。

「娘」

「……はい」

「帰りたくないのか」

 こはるは答えない。

「帰れないのか」

 こはるの指が、毛布を強く握る。

 源三さんはしばらく黙っていた。

 そして、ふん、と鼻を鳴らす。

「黒瀬」

「はい」

「今日一日くらいなら、見逃す」

「源さんの許可制なんですか、ここ」

「商店街の治安はわしの管轄だ」

「いつから自治政府に」

「ただし」

 源三さんは俺を睨む。

「問題が起きる前に相談しろ。一人で抱えるな。お前はそういう顔をしとる」

 俺は言葉に詰まった。

「……分かりました」

「分かっとらん返事だ」

「分かりましたって」

「お前は、分かったと言いながら分からん男だ」

「めちゃくちゃ言うな」

 源三さんは次に、こはるを見た。

「娘」

「……はい」

「飯は食ったか」

「少し」

「寝たか」

「少し」

「なら、今日はそれでいい」

 こはるが顔を上げる。

 源三さんは視線を逸らしながら言った。

「若いもんは、すぐ全部解決しようとする。馬鹿だ。一日で壊れたもんが、一日で直るか」

「……」

「今日は飯食って寝ろ。話はそれからだ」

 そう言うと、源三さんはカウンターに五百円玉を置いた。

「コーヒー」

「まだ開店前です」

「客が来たら開店だ」

「横暴」

「まずいやつでいい」

「うちにはまずいやつしかないみたいに言わないでください」

「実際そうだ」

 いつもの調子に戻った源三さんに、こはるが小さく目を丸くした。

 俺はコーヒーを淹れる。

 源三さんはカウンター席に座り、出されたコーヒーを飲んで、いつものように顔をしかめた。

「まずい」

「はいはい」

「だが、今日は少しマシだ」

「それ、褒めてます?」

「泣いた娘がいる店で、いつも通りまずいと言うほど、わしも鬼ではない」

「言ってますよね、まずいって」

「控えめに言った」

「どこが」

 こはるが、ほんの少し笑った。

 源三さんはそれに気づいたのか、気づかないふりをしたのか、新聞を広げた。

 店内に、少しだけ日常が戻る。

 泣いた後の空気。

 黒いワゴンの不穏さ。

 神谷レンの名前。

 こはるの事務所と家族。

 何一つ解決していない。

 それでも、コーヒーの匂いがして、フレンチトーストの甘い匂いが残っていて、源三さんが新聞をめくっている。

 こはるはその風景を、不思議そうに見ていた。

「黒瀬さん」

「ん?」

「ここ、変な場所ですね」

「よく言われる」

「でも」

 こはるは、カップを両手で包む。

「少し、息ができます」

 俺は返事をしなかった。

 返事をしたら、たぶん余計なことを言う。

 その時、タオルに包まれたスマホが、また震えた。

 こはるの表情が固まる。

 源三さんの新聞をめくる手も止まった。

 店内の全員が、その小さな振動に気づいていた。

 こはるは、ゆっくりスマホを手に取った。

「見るのか」

 俺が聞くと、こはるは頷いた。

「……はい」

 画面を見る。

 次の瞬間、こはるの唇から血の気が引いた。

「どうした」

 俺が立ち上がる。

 こはるは声を出そうとして、出せなかった。

 スマホの画面が、わずかにこちらを向く。

 そこには、マネージャーからのメッセージが表示されていた。

【本日十八時、月乃こはねとして謝罪配信をしてください。台本はこちらで用意します】

 こはるの手が震えた。

 さっきまで少しだけ戻っていた表情が、音を立てずに消えていく。

 月乃こはね。

 笑えないと言ったばかりの少女に、画面の向こうはまた、その名前を被せようとしている。

 こはるは、掠れた声で言った。

「……私」

 視線が宙を泳ぐ。

「今日、笑えないのに」

 源三さんが新聞を畳んだ。

 俺はスマホから目を離せなかった。

 喫茶こもれびの朝は、もう静かではなかった。

 外の商店街には、雨上がりの光が差している。

 けれど、こはるの小さなスマホの中で、また炎が燃えようとしていた。

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